間接交流という日本独自の親子の在り方

拉致司法と呼ばれる日本の裁判官らの多くは、離婚弁護士らの関与で拉致様態で引き裂かれ泣き寝入りする様子の無い父親に対して「高葛藤」という烙印を押し、「間接交流」(直接会う必要などなく写真が受け取れるだけで満足しろというもの)を科すことがある。

拉致国家日本の標準的被害父子は、家庭裁判所調査官の天下り先に金銭を支払い、軟禁監視下で尊厳を奪われ、月に1回3時間以内の親子交流が認められることになる。

引き離された親が親権者であっても、日本では、我が子と会う権利は保証されておらず、長い法手続きを経て、ようやく極貧な面会交流の債務名義を得ることになる。

債務名義があったとしても会えるとは限らない。親子断絶強要が親権停止要件にならない日本では、面会交流の債務不履行は横行している。

別居親が子どもに会いたい気持ちを知り、面会交流不履行により苦しめたい精神的暴力加害欲求に憑りつかれている同居親は多いし、面会交流の債務不履行を正当化する為の法手続き代理人を積極的に請け負う弁護士らも多い。

そのような親子引き離し屋に動機付けをしているのは、実効支配親の我儘に同調して、間接交流を命じる審判例だ。

真山勇一参議院議員は、平成28年3月10日の参議院法務委員会で、この間接交流を一度食らうと直接交流出来なくなる不安について質問をしたが、最高裁家庭局長の村田は、準備的手続きの側面があるなどと答弁した。緩慢な法手続きで親子の取り返しの着かない人生の時間を平然と奪い従前の関係を風化させる時間を稼がせる拉致国家の司法の代表者らしい答弁だ。

同居時に良好な関係の父子に対しても、拉致断絶後には、家裁調査官の天下り先の支配下に置き尊厳を奪い金銭を支払わせる審判も酷いものだが、それに対しての抗議の言論を抑圧しているのは、天下り人らのご機嫌を損ねて、面会交流不履行になり、法的救済を求めれば、「間接交流」という日本独自の親子交流の債務名義に変えられてしまうという恐怖があるからだ。

家裁の若い判事補が、親子の交流は、原則として子の福祉に適うと判断しても、高裁の子育てに疎く、父親の育児のイメージを持たない人種たちはそれを覆してきた。そのような老害らの判断を正当化させるために、親子引き離し司法に精通した弁護士らは、同居親に「子どもが別居親に会いたがっていない」と一方的な主張をさせ、被害者である子ども達に責任を押し付けてきた。

しかし、逆に家裁で、間接交流を言い渡され、高裁の抗告審で直接交流に戻されるという珍しい判例もある。


令和元年11月に大阪高裁で決定した抗告審では、忠誠葛藤で苦しむ子供に対して、別居親との面会交流は、間接交流では無く、直接交流が必要であると判断した。

忠誠葛藤に配慮した審判例も珍しい。

但し、間接交流の債務名義にされることを免れた代償として、事細かに規定された日時以外の面会交流をさせないでよいよとお墨付きを与えた側面もある。

面会交流の債務名義の不履行に対して、法的な手続き保障は、日本では、親権者変更では無く、金銭支払いの間接強制しか無く、間接強制には、詳細な面会交流の規定が必要とされる判例法理があることから、手続き保障をした審判例と言えるのかもしれない。

養育費を払っている相手から、法手続きを経て僅かな金銭を得たところで、取り返しの着かない時間を奪われた親子に憲法で保障された手続保障があるといえるのだろうか。

自由心証主義という職権を濫用し立法行為に準ずる行為をしている民事裁判官達には、親子の人権を軽視せず、職権を正しく行使して欲しい。

そして政治家らも、一人親支援利権に忖度して、拉致国家の体制を強固にするばかりでは無く、人権意識の欠如し自浄作用の全く期待できない裁判官らの実務の運用を拘束する立法を速やかに制定していただきたいものだ。

Taro's blog 報道されづらい真実

何故,こんな酷い社会問題が解決されずにいるのだろう?という問題が日本には溢れている。 司法がもし法と正義を守る機関では無かったら? 深刻な社会問題を票読みから見て見ぬふりする政治家ばかりだったら? 大手報道が取り上げをタブー視する人権問題があったら? 市民を言論弾圧するスラップ訴訟が横行していたら? 今,市民の勇気をもった情報発信が求められている。 発信者 小島 太郎